サラの鍵

「サラの鍵」
実は昨年の年末に銀座テアトルシネマで観たのですが、なにを書いたらいいのか言葉が見つからず、そのままになっていたのです。カタログのレビューでは、叙情的とか感動的とか、深く心をゆさぶられたとか高評価な様ですが、私の観た感想というのはちょっと違うものでした。

最初に浮かんだのは、一昨年アウシュヴィッツ収容所跡を訪れた時に聞いた話で、"アジア人の中で日本人が一番来訪者数が少ない” という事実で、この映画を機にアウシュヴュッツにも訪れようと思う日本人が増えるといいな、という事でした。私が行った年末は映画館は満員で、注目を集めているようでしたので。一番よくないのは、無関心だからです。

どの人にとっても衝撃的なのは、サラが苦労の末に元の家にたどりつけて望みむなしく弟を発見するシーンでしょう。特に発見した時のサラの絶望的な悲鳴は印象に(耳に)残っています。 私は最初の方のシーンで猫が弟のいるクローゼットの壁をガリガリやっているのをみて、あの猫はどうなるのだろう、と猫の心配ばかりしていましたが、キッチンで死んでいた、という言葉にかなりショックでした。なぜ窓とかドアとかあけていかなかったのか、そんな少しの時間も余裕もなかったのか、と リアルな言葉と描写に衝撃をうけました。

サラは、弟を助け出さなければならない、という一念で助かるわけですが、もしこの事がなければ、収容所を脱走する事なく病気で死んでいたと思います。そういう意味では、この一念に助けられた、と言えるわけですが、結局大人になって自分の子供も授かるのに(それも男の子)自殺してしまうのですから、まわりに本当に心を許せる人がいなかったのでしょう、とにかくその絶望の深さといい、話しは限りなく悲劇的です。
映画としてはどこか救いがほしいものですが、主人公のジュリアにしても子供を授かったのに夫には中絶を求められ産む事を反対され、ですが結局産むことを選ぶので、夫とは別れるという、家庭的に不幸な感じが漂うわけです。この夫を通してみえてくるフランス人の徹底した個人主義は、日本人には自分勝手な利己主義者に感じられるでしょう。
私は前評判を聞いて泣ける映画かと思い、手にはハンカチをにぎって用意していたのですが、まるで泣けるシーンはなく、唯一最後のシーンの、ジュリアが生んだ女の子にサラ、と名づけた、と言って外を見ている子どものサラの後ろ姿がアップされるシーンでジーンとなり、そこだけが唯一救いがあり、つまり生命がつながっていくことを意味していたからです。
歴史的事実に焦点をあて、緊張感&緊迫感があってよくできてはいると思いますが、あまりヒューマニスティックな映画ではないと思いました。フランス人監督(おまけにパリ生まれ)だからでしょうか。。。

ユダヤ人虐殺に焦点をあてた映画は数多く観ていますが、例えば、「縞模様のパジャマを着た少年」は感動的でした。あれも悲劇的な最後ではあるのですが、主人公のドイツ人将校の子どもが子どもであるがために人種偏見をこえた友情をもつ事ができる、というテーマのようなヒューマニスティックな視点があるのです。
「ライフ・イズ・ビューティフル」にしてもユダヤ人の父と息子の(家族間の)深い愛情が描かれていました。そういう、何かヒューマニスティックでユーモアもあり叙情的な場面がこのサラの鍵には足りない感じがしました。
このヨーロッパ全体が加担したユダヤ人虐殺という事実は、歴史的事実を追っていくだけでは絶望だけしか見えてこないのです。映画という表現媒体ではもう少し救いの部分やヒューマニスティックな視点が必要だと思うのです。 そういう視点が入ることで、絶望がなくなるというわけではなく、かえって絶望もきわだつのですから。

サラの鍵 公式サイト↓
http://www.sara.gaga.ne.jp/

P.S. : 原作本を読んでいないので、原作本を読んだら違うかもしれませんが、この映画を観た後では読む気がしません。もうひとつ、この映画のジュリア役のクリスティン・スコット・トーマスの顔は、不幸な役をするのにあまりにもぴったりな顔で印象に残りました。







昨年末の銀座

昨年末の有楽町

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